-
自然と共生することの意味−映画「阿賀に生きる」に学ぶ−2009.07.01 Wednesday
-
以下は大熊先生と新潟水俣病被害者の会幹事の旗野さんの講演です。まずは大熊先生から。
阿賀野川周辺で約12000年前の土器が発掘された。青森県に抜かれるまで世界最古の土器だった。土器が出てくると言うことはそこに新しい文明が起こり、生活が営まれていたと言うことだ。内山先生の言葉を借りれば「無事な暮らし」が12000年間続けられてきたと言うことだ。その「無事な暮らし」を引き裂いた物は何か。鹿瀬ダムができてその電力で昭和電工がアセトアルデヒドを作りその排水で水俣病が発生した。
悲惨なことに阿賀野川はダムで細切れにされ、発電のためだけの川になってしまっている。それだけの発電をしているにもかかわらず、阿賀野川沿いを走るJR磐越西線はディーゼルで電化すらされていない。それでも市民の努力もあり下流には12kgの鮭が登ってくるような自然が残っているといえる。
阿賀に生きるという映画を作った。全国1500人以上の3000万円の募金と借金1000万円、阿賀野川沿いで自然と共生し生き生きと生きる人、しかし水俣病患者であった人の日常を描いた。隣にいる旗野さんがこんなに若い頃に関わった映画だ。みんな水俣病と仲良く生きている。例えば82歳の方でも新潟水俣病患者で80歳をすぎても何臼(203臼)も餅がつける体力はどこから来るのか。これは自然と共に生きてきたからこそ出来ることである。他にも皆さんお元気である。私の定年退職記念会で歌を歌ってくれた方も新潟水俣病患者。やはり80歳を超えて米寿の記念にCDまでだしている。本当に新潟水俣病患者なのだろうかと思ってしまう。そういう元気なところが、偽患者と思われてしまう一因だ。しかし自然の中で生きてきた人はいくつになってもできるのである。
「阿賀に生きる」から学んだこと。自然との共生は我々に強靱な肉体と慎ましく生きる精神を授けてくれる。仲間と助け合い暮らしていくことが本当の人生。仲間と楽しい時間を共有できる人は仕事も出来るのである。
以降はこれを受けて旗野さんからのお話です。
旗野秀人さん(株式会社旗野住研取締役専務、新潟水俣病安田患者の会事務局長)
1950年 新潟県安田町(現阿賀野市)生まれ
1969年 新潟県立水原高校卒業後、家業の建築業に従事、現在取締役専務。
1971年 東京駅前のチッソ本社で座り込み中の(熊本)水俣病患者たちを目撃し、リーダー川本輝男氏に出会う。
1989年 映画「阿賀に生きる」制作に全面協力。
現在、新潟水俣病安田患者の会事務局長。
(当日配布の講師プロフィールより)
本当はもっと(大熊)先生に話をしていただく予定で余り用意していない。患者さんが一人亡くなり、二人亡くなりとみんないなくなってしまう。そこで患者さんが喜ぶことを冥土のみやげ企画として始めた。現知事になり新潟県と新潟水俣病40周年記念事業を一緒にする際に、協賛冥土のみやげ企画としたら本当に通ってしまってポスターにもなってびっくりである。お地蔵さんなら何も語らないでもそこに残っている。
最初は誰も何も話してはくれなかった。生活を共にする内に、あそこが悪いから直しておけなどとだんだんに関係を深め、回っていく内にようやく認められるようになった。差別が気になって未だに認定すら行かない人もいる。行っても相手は専門家。患者を言いくるめられてしまう。また患者もプロではないから、伝えたいことが伝わらない。自分の家族の話や世間話になってしまう。何でこんなに無駄なことをしているのかと気になった。皆さん人がいい。ある家で窓が壊れているから、私も大工の端くれなので直してやろうかと聞いてみた。そしたら朝顔が毎年軒下から生えて窓のかけたところからでてきて挨拶しにくるので、直さなくていいと言うんです。寒くないのかと聞けば寒いけどいいという。今時いますか。寒いのを我慢して朝顔のために窓を直さない人が。
こんな人たちですから何かしてあげたいと思った。そして患者のありのままを映画にした。さらにお地蔵さんを作るとそこに人が集まり、語られるようになった。新潟水俣病と(熊本)水俣病では同じ石工がお地蔵さんを作っている。新潟では地域を見守っているが、熊本では窒素の排水溝を監視している。しかもこのお地蔵様が県有地に勝手に立ててしまったが、お地蔵様なので動かしたら罰が当たると動かされないし、撤去も出来ない。
また、現在渡良瀬川下流域の館林市にもお地蔵さん作った。田中正造以来の100年を超えた関係である。
今ようやく水俣病が語られるようになった。まだまだこれからであり、これからどうつないでいくかが課題。
- この記事のトラックバックURL
- http://3nintetugaku.net/trackback/73
- トラックバック

