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語り部(生き証人) 近さん2009.06.26 Friday
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次は阿賀野川下流域に住まれ、周りは全員水俣病の認知を受けたのに、お一人だけ受けなかった近さんによる口演です。
近 四喜男(ちか よきお)さん
1930年(S5) 新潟県中蒲原郡大形村(現:新潟市東区一日市)に8人兄弟の6番目として生まれる。現在79歳。
1945年(S20) 大形尋常小学校高等科卒業後、鮭とり船団に乗り込み阿賀野川で漁をする。
1949年(S24) 港建設新潟工事事務所に勤務(1991年定年により退職)
1967年(S42) 新潟水俣病第一次訴訟。原告団団長である長兄(近 喜代一さん)を支援する。
1998年(H10) 新潟水俣病被害者の会幹事となる。
2002年(H14) 新潟県立環境と人間のふれあい館「語り部」として活動現在に至る。
(当日配布の講師プロフィールより)
未だに患者の家族から聞かれるのが、新潟水俣病の患者として写真を撮られたくないと言われる。それは偏見を持たれるからだ。私自身は親も含めて家族9人が水俣病を発症した。そのうち3人が死亡し、他は障害を持ったまま生活をしている。こんな悲惨な状況になったことを次世代に黙っていていいのか。そこで裁判という手段に訴えたが、新潟水俣病は第一訴訟で認められた物の、その保障問題を争点にした第二訴訟では命をむしばまれていながら13年も戦ったあげく、結局和解に持ち込まれてしまった。常に正義が勝つ訳じゃなかった。それなら多くの人によって語り継いでいこうと思った。そこで被害者の会に進められ、語り部として語り継いでいくことにした。これから水俣病が公開されるまで生活、それから自分の親子の話を初め、一つでも新しい知識を得たらどんどん皆さんに伝えていきたい。
私は阿賀野川河口から4キロ上流で70件の農村に住んでいた。物がないのが当たり前の貧乏村だった。それ故30%しか専業農家では食っていけない。当時はいっぱい作業があった。全部が村人総出の共同作業。そして最後は飲み会で締められる。物はなかったが村の雰囲気は良かった。1935、6年私が5〜6歳頃は農業の他はまだ阿賀野川で生活していた。村は井戸で夏は水が自然と少なくなった。氾濫もないし楽な生活だった。河口から4キロ上流だから潮の干満差があった。
川には洗い場を作り、女たちの社交場になっていた。そこが生活の場になっていたのだ。阿賀野川は本当に命の川。風呂の代わりに水浴びをする物もいた。小学生は今では捕まってしまうが、ガキ大将に強要され川を泳いで横断するような遊びもしていた。中州は無人島でいい遊び場だった。河原では青年団が毎年運動会をしていた。その他に家畜の放牧場があり、山羊や牛が飼われていた。のんびりした生活だったが、(心の)裕福さがあった。そして河原には毎年夏になると誰が作ったのか5〜6台風呂がたつ。それを勝手に拝借する。親の教育よりも野生動物と一緒に育った。だから自然の厳しさや優しさを学ぶことが出来た。洪水になると流木が流れてきて、それが薪になった。覚えているだけで魚が16〜17種類いた。堀を利用して農作物を運んでいた。全ては船で運ばれていた。
当時8軒の漁師がいた。売れる魚が捕れなきゃ生活が出来ない。魚は売る物であって食べるものではなかった。魚が捕れなきゃ生活が出来ない。当時私は新潟鉄鋼に勤務していたが、鮭漁を手伝っていた。鮭漁師は給料が10倍もらえた。1日に10本とると乗り込んでいる8人全員にお小遣いが出た。それが最盛期には1日100本も取れた。ヤマメも人気があったが、一日に100本も取れると言うことが普通だった。4〜5月になると雪解けの冷たい水になりかに漁が行われた。でも漁としては5〜10月の鮭漁がメイン。私は子だくさんだから根こそぎもらっていった。1番で40〜50Kgとなるが、近所はお金がないので、売ると言うよりもただであげるという状態に近かった。腐らせてもしょうがないから蒲焼きにした。それは子供の仕事で小さい頃良くやらされたのを覚えている。魚を無駄にしない。もし無駄にしようものなら、少しでも捨てると、親から越前火鉢が飛んできた。魚は大切な物だった。そして魚はごちそうだった。そのころは世代間の仲が良く、まして私のような貧乏親子は絆が半端じゃなかった。週末になると孫を連れて帰る。そうすると親が喜んで、おみやげにごっそり魚をくれる。その魚が水俣病の原因だった。
それが昭和40年の新潟水俣病公開まで続く。今まで命の川であった阿賀野川と決別することになる。それは上水道が整備された3年後だった。水俣病の情報は入ったが、何がどうなってどう怖いのかは全くわからなかった。新潟県の調査団が来たが、意見が全くかみ合わない。私たちはなぜなったのか、原因となる魚はどれで、どれは食べてもいいのか、そして今後どうしたらいいのかを知りたかったのだが、調査団はただ水俣病患者の数を調べるだけ。そこで専門家に聞いたら、えさに飛びついた魚はまだ元気だから大丈夫。でも当時は死んだ魚は内臓だけ取り除けば食べられると思って食べてしまった。(実際には水銀中毒になった魚は生きていようが死んでいようが身も食べられない。きちんとした情報がなかった。)
認定された人ととされない人。同じ魚を同じように食べていても違いが出た。そして認定された人には補償金が出る。これが偏見と差別に繋がる。当時はお上に逆らうとは何事か、お金が欲しくてわざと言っているんだろうなどと罵声を浴びせられ、その結果村からつまはじきにされてしまった者もいる。又ある商店では水俣病患者になった瞬間、誰も来なくなってしまい開店休業状態になってしまった。そんな中でよほどの魚嫌いでもない限りは、魚を食べて全員が生活していたわけだが、偏見が恐ろしくて、医者や調査団には魚は一度も食べたことがないと言ってしまう人がでた。だから実際には患者数はもっと多いことだろう。
さらに今の知事になってからようやく状況が良くなったが、当時の知事はお上のことしか考えておらず、お上に嫌われては大変だからということだった。知事に呼ばれて行くと「おまえは元気だと思え。だるい気がするだけなんだ。そして訴訟から外れろ。お上に歯向かうな。そしたら県が保証金を出す。」と言われた。一方巡査や駐在所の職員は今まで貧乏人など相手にせず、事件があるとくるものだったのが、(保証金がもらえたとたんに)向き方が変わる。毎日のように入り浸って友人になろうとした。そんな悔しい思いをしてきた。
家族が水俣病になり、自分も同じものを食べているわけだから検査を受けろと何度も進められた。しかし子供も小さいし症状は親父ほどじゃないからと遠慮していたが、昭和43年それは和解の前年であり、兄が亡くなった。そして私は翌年検査を受けた。自己症状として薬指が内間狩りになり、脳がいつも眠っているような感じだった。検査項目自体は42年に完成しており、(メチル水銀・有機水銀は脳に傷害を与えるため、)棒を落として握れるかということと、片足歩きをさせられた。こんなんで水俣病がわかるのかと感心した。結局水俣病の気はあるが、水俣病ではないと結論づけられた。兄弟みんななっているのになぜ私だけならないのか矛盾しているのではないかと思った。
親が4月に2泊3日で東京見学をした。親父は認定を受ける前に死んだ。認定を受けるかといっていたらなくなった。東京に行ったら悪化して、1週間様子を見てだめなら医者に行こうと言っている間に症状は悪くなった。そこで2週間バスで隣町の病院まで通った。そうしたらますますふらふらしてきた。そこで医者が三行半を突きつけ、私の紹介があればどこでも同じ治療が受けられるからと、自分の町の医者に紹介状が出された。せめて病名だけでも確定してくれないかと言ったらなんで私が治療しているのに症状が悪くなるんだ。そんなものに病名などつけられないと、返されてしまった。仕方なく今度はリアカーで病院まで運んだ。坂道の旅に奇声を上げた。そんなことを続け2ヶ月で死んだ。周りからは(自分を納得させるために)76歳なら大往生だと言っている。
(二番目の?)兄は先の万歳(第一次訴訟確定時)写真の2年後になくなる。いつも疲れたと言っていた。床の上から落ちたら植物状態になり、その翌月には訴訟が始まると言うところで。3番目は2年前になくなった。肝臓がやられていた。悪くなったら終わりだと言い続けられ、そこまで生きていた。そして22年間新潟大に通って治療を受けていた。
私は水俣病認定されず、家族がみんななっているのになぜと思った。今は耳鳴りがすごい。それが10年近く続いている。押されるような感じ。医者には母親のおなかの中にいるようなものなんじゃないかといわれる。44歳で聞こえにくくなる。そのときが一番症状のピークだった。昭和40年から足のしびれがある。左足がよくこぶら返りが起こる。さらに両手がしびれ、びくつきが起こる。最初はもぞもぞした感じだったが、今は電流が流れるような激しい痛みで、それが起きている間は動くことも出来ない。感じたことのない痛みで、とても我慢することが出来ない。また、変わった体勢をとるとカラスよがりして体が元に戻らなくなってしまう。あんまりあげてもしょうがないけど、今本当に困っているのは4〜5年前から寒気が止まらない。寒気の後しびれがくる。布団に電気毛布を入れていたが暖まらず、お風呂に一晩中入り続けていなければ、体が冷えてしまう。眠るとしびれがきて、起きると直った。今は両手がよくなったら両足にくるようになってしまって眠れない。良くさすったり、薬を塗ったりすれば最初の頃は眠れたが、今は全くだめ。手先のしびれが手のひらに来てこれが経験したことのない痛み。1〜2時間毎に起きているから、よく眠れない。老化現象じゃないのかという人もいるけど、そうではない。
ずっと憎み続けてきたが、今は憎むのをやめた。憎むと自分が惨めになるだけだ。悔しい思いは未だにある。新潟水俣病は九州の9年後。なぜそこまで放置されたのか。政府は誰も反省していない。考えると怒りがわいてくる。建設省の昭和電工の排水調査で結論が出ているはずなのに、(公表されておらず、)あの結果はどこに行ってしまったのか。行政は悪いことをすべくしていたのだ。そして企業にはきちんとした目を向けなければいけない。昔ははらわたを取れば食べられるのが当たり前で、それじゃだめだった。きちんとした知識を持たなければいけない。公害は一度発生すると見境なしに広がる。二度と興さないためにも新潟水俣病を忘れないでほしい。環境を保全し人間には自然が必要だ。是非ともさわって感じてもらいたい。
化学薬品、化成品が我々の生活で普通に使われているわけだから、自分たちから公害を広めないようにしないといけない。特に排水。自分たちの周りに公害になりそうな企業、そういう向上はないのか常に監視し、地域で話をする。人や自然に変化が起きたら、一人で戦わずに隣近所に話しかけてもらいたい。環境は本当は国がやるべき信託財産。個人には調べようがないし出来ない。(自分で環境の専門分析が出来る訳じゃない。)調べてもらわなきゃいけない。国の行政が怠けたから公害が発生した。我々は彼ら(調査官)の働き場を作る。例えば情報公開制度などでどんどん請求する。2004年の最高裁判決がでるまで44年間そんなにたっているのに、今になって水俣病患者が3万人も出ているのはなぜか。当時の認定基準が悪かったのではないか。皆さんにも是非最期まで見届け応援してもらいたい。
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