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新潟水俣病、その前に草倉銅山

6月20日〜6月21日にかけて新潟県立環境と人間のふれあい館−新潟水俣病資料館−で阿賀野川哲学塾が開催されました。

今回は阿賀野川流域地域フィールドミュージアム事業の一環として、三人委員会哲学塾ネットワークの大熊先生を中心に進められました。そんなわけですっかり油断をしておりましたら、事務局澤田様に当ブログへも記載いただきたいとのことを受け、急遽思い出しながら記載しております。それ故抜け落ちが多いかもしれませんが、あらかじめご了承ください。しばらく連載記事とします。

大熊先生より
阿賀野川下流域フィールドミュージアム事業の一環として今回開催する。考えたのは水俣病だけではなく、明治以降の近代化の中で、どういう位置づけをしたらよいか。三人委員会に協力をいただき進めていきたい。三人委員会は1996年に第一回を掛川市でスタートした。そのときは当時の市長とともに、グローバルな市場経済、自然と人間の関係の薄れた近代をローカルから見直すということだった。
水俣病は50年たっても解決しない。問題はどこにあるのか考えていきたい。

次にグループ「こっこ」の皆さんから紙芝居の上映がありました。(草倉銅山が昭和肥料後の昭和電工・水俣病原因企業に売却されることになり、水俣病とは関係が深い。)
グループ「こっこ」
阿賀町(三川地区)在住の浅川奈保子さん・板屋越由希さん・山口茉依さんの若田女性三人組。
「阿賀野川え〜とこだプロジェクト」(新潟県の阿賀野川流域地域フィールドミュージアム事業)のなかで阿賀町の魅力を伝えようと、かつて阿賀町にあった草倉銅山の歴史を語る紙芝居「区桜銅山物語」を作成し各地で講演を行っています。
本日はお忙しい中、板屋越由希さんと山口茉依さんのお二人にお出でいただきました。(当日配布の講師プロフィールより)

(なるべく当日に近づけておりますが、原文のままではありません。)
わしは草倉銅山じゃ。今はすっかり人がいなくなってしまったが、昔はたくさん人がおってな。それはにぎやかなところじゃったんじゃ。ちょっと昔のことでも思い出してみるかの。
江戸の中頃二人の男が銅が石の中に含まれているのを発見したのが始まりじゃ。その後明治に入り政府に徴収される物の、古河市兵衛に売却され、明治八年八月八日で八がたくさんあり縁起がいいと言うことで開山され、大きな生産が始まったのじゃ。当時は全国から人が集まり多いときでは6000人もの人がおったのじゃ。学校、病院、郵便局、派出所もあり、それはそれは大きなにぎわいじゃった。当時珍しい電話が郡内で一番早く導入され10数カ所も設置されており、「もしもし、聞こえますか?」と良く村の小学生が遊びに来たなぁ。そういえば当時珍しい牛乳なども飲んでおったな。後に古河市兵衛は草倉銅山の収入を元に足尾銅山を買い取ったのじゃ。
銅を含んだ石がどれだけとれたかで、お給料が決まっておったんじゃ。16艘の帆掛け船を抱えて、毎日のように行き来をしておった。お給料は本社から送られるが、当時は銀行がなかったので、東京から新潟に送金されたお金をリアカーで取りに行ったんじゃ。新潟まで1週間かかる道のりを超えて。そしてまたお給料を持って山へ戻る。
 そういえば後の総理大臣原敬が視察に来たときはお祭り騒ぎじゃった。当時古河砿業の副社長で、東京から上野まで19時間の汽車できた後、その後は人力車で来たんじゃ。その日は従業員全員に1円(今の一万五千円)がくばられたんじゃ。その他にも年に一度のお祭りが楽しみでな。長岡から興行団を呼んで派手に祝ったもんじゃ。

一方で下流の村からは煙害を指摘され、栗林が枯れてしまったんじゃ。そこで古河砿業は保証金を払ったのじゃが、被害者は二度と文句を言わないと契約書に記載してあり、これが各地の参考になったそうじゃ。また、落盤事故や珪肺(けいはい)で多くの人が亡くなり、2番目3番目と何人も結婚した人が多かったんじゃ。そうなると子供の父親が全員違うなんて言うこともしょっちゅうじゃった。そのような状況なので、路頭に迷う人を減らすべく友子同盟という物が結ばれたんじゃ。
三年三ヶ月十日の間は親分子分の関係を結び、その間に礼儀等を教えてもらう。同時に病気やけが人には奉願帳をわたし、全国どこの鉱山でも助けてもらえるようにしたんじゃ。今で言う社会保険じゃな。この師弟関係は絶対で破ると全国に知れ渡り、どこの鉱山でも仕事が出来なくなった。

そんな生活がいつまでも続くと思われておったが、年々とれなくなって、余った人は足尾銅山へ移るようになった。ついには大正3年には廃山になった。廃山になると動ける者はみな足尾銅山へ移ったが、小さい子供を連れて山を越えるのは大変で、なくなく子供を知り合いに託して移動していった者も多かったのじゃ。嵐のようにきて、嵐のように去っていった。

posted by: 三枝 孝裕 | 阿賀野川哲学塾 | 18:50 | comments(1) | trackbacks(1) |
会場から質問が出ておりましたが、「こっこ」とは阿賀弁でたくあんの意味だそうです。別にたくあんであることに意味があるわけではなく、阿賀弁をつけたかった。その中でかわいいのが「こっこ」だったのでそうしたとのことです。

私は現在の住まいは群馬県ですが、隣の栃木県佐野市で生まれ育ちました。佐野市は渡良瀬川下流域ですので、新潟水俣病には直接関係ないと思っていましたが、まさか足尾鉱毒事件という形でつながりがあったとは。高速でも遠い距離なわけですから、当時の労力は徒歩。途方もない時間をかけて移動してきたのでしょうね。

新潟水俣病関係者からすると田中正造はカリスマのようで、佐野から来たと言うだけで別格視されました。100年以上前の足尾鉱毒事件の教訓が生かされず40年前の水俣病に繋がり、ただただ問題が繰り返されている状況に、何とか変化を起こさなければならないなと思います。
| 三枝孝裕 | 2009/06/25 12:09 PM |









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2009/06/24 7:15 PM
先日新潟県立環境と人間のふれあい館−新潟水俣病資料館−で阿賀野川哲学塾に参加しました。内容は例によって三人委員会哲学塾ネットワークに掲載しますが、とてもいい旅でした。新潟は環境がいいですし、魚がおいし
みえだぶろぐ